曹洞宗栄久山覚王寺
覚王寺の寺歴(縁起)について

室町時代の明徳年間(1390〜1393)、覚王院殿前越州太守 雄山英徹大居士を開基として
創建された。(その時は真言宗であった)

戦国乱世の永正年間(1504〜1520)の頃、兵火によって全焼したとされる。
創建当時の覚王寺は現在の場所ではなく、今も小字で「寺山坪」と呼ばれる一帯に在ったと
思われ、鐘楼跡と伝えられる土塁が残り、時折土中から焼けた木くずなどが見つかる。

将軍、足利義晴の代の大永七年(1527年)当時、この地を治めていた信田右衛門公によって
現在の地に再建された。
その際、下総(現在の千葉・市川市)の総寧寺(そうねいじ)の十七世骨山全徹大和尚を開山
として招き、以来曹洞宗の寺院として修業僧をかかえる禅道場としての活動が始まった。

    つまび
年代は詳らかでないが、その後約百年間、住職不在のいわゆる無住時代があり、寺は相当に
荒廃したと考えられる。

明暦元年(1655年)、徳川四代家綱の時代に、下総総寧寺より二十四世の智堂光紹大和尚を
招き、改めて開山として覚王寺再興を依頼した。
従って、さきの骨山全徹大和尚を古開山と称している。

以後、二世天恩長澤大和尚以降、現世の住職二十三世賢孝和尚まで約350年、再三の修築
や増築による伽藍の変容をとげながら今日に至っている。


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